世界は動いている。
しかし
ここ旧東海道には
時が澱のように留まっている場所がある。
草津駅からゆっくりと歩を進め
僕は再び「さくら」の前に立っていた。

前回の訪問から一ヶ月
その間に季節の針は少しだけ進んでいた。

道中に見かけた追分の道標。
「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」
かつての旅人たちが
其々の目的地を胸にここを通り過ぎていったように
僕の目的地もまた明確だ。
あのエッジの立った十割蕎麦。

店内に一歩足を踏み入れると
そこには心地よい活気が満ちていた。
僕は前回と同じ
カウンターのあの位置に陣取る。
それは僕にとっての定点観測のようなものだ。
店内には一人で蕎麦を手繰る尾根遺産たちの姿もいくつか見受けられる。
彼女たちは
まるで秘密の儀式を執り行うかのように
静かにこの店の暖簾を潜っている。
見上げれば
テレビからはワイドショーが流れている。
南丹市の男児遺棄事件という
あまりにも痛ましく
不条理な現実が画面越しに告げられていた。
箸を動かす僕たちの日常と
画面の向こう側の非日常。
その強烈なコントラストが
眼前の蕎麦の持つストイックな質感を
より一層際立たせる。

「海老天」
今回の海老も
鱚同様にその身を誇るかのように堂々と直立している。
その周囲を固めるカボチャや大葉の天ぷらも
完璧な衣の薄さを保っている。

今日の蕎麦は竜王町産。
繋ぎを一切使わずに打たれた十割。
蕎麦の表面は十割らしく
わずかにざらつきを帯びている。
そこに散らばるホシは
まるで大地の記憶の断片のようだ。

そして
ピンと立ったエッジの美しさ。
まずは何もつけずに手繰る。
口の中で跳ねるような
十割ならではのコシ。
蕎麦の粒子が一つに結束し
僕の舌に真っ向から挑んでくるような
生命力に満ちた反発力だ。

厳選された出汁が香るもり汁に潜らせる。
蕎麦の野生味と
洗練されたもり汁の旨味
それは完璧な対位法を奏でている。
嘉味!

ポタージュのように濃厚な蕎麦湯。
これを飲み干すことで
僕の一連の儀式は完結する。

店を出て再び旧東海道の空気を吸い込む。
世間では悲しい事件が報じられ
世界は相変わらず不確かなままだけれど
少なくともここ草津には
信じるに足る一本のコシが確かに存在している。
また来よう
そう心に決めて僕は駅へと歩き出した。
ごちそうさまでした。




