ザルツブルクの街を歩くとき
僕はいつも少しだけ目的地を決めずに歩くことにしている。
そうすることでしか出会えない何かがあるからだ。

ミラベル庭園に立つと
視界の先にホーエンザルツブルク城が聳え立っている。
ここは映画『サウンド・オブ・ミュージック』のクライマックス
ドレミの歌のシーンで使われた場所だ。
画面の向こう側にあったあの完璧な調和が
現実の風景として僕の目の前に存在している。
そんな余韻を抱えたまま旧市街を散策していると
ふと一軒の可愛い店が目に留まった。

「Staindl's Handgemachte Delikatessen(シュタインドルズ・ハンドゲマハテ・デリカテッセン)」
白壁に穿たれた石のアーチ
そして温かみのあるディスプレイ。
吸い寄せられるように中へ入ると
そこにはジャムの海が広がっていた。

メニューを見て僕は言葉を失った。
「Marmeladen & Fruchtaufstriche(マーマレードとフルーツジャム)」のリストには
パイナップルからエルダーフラワー
グリューワイン風味までが並び
さらには「Chutneys(チャツネ)」や「Gelees(ゼリー)」が壁一面を埋め尽くしている。
その数
ゆうに100種類は超えているだろう。
一つひとつのラベルを丁寧に眺めていくうちに
僕の視線はある一点で止まった。

「Bier-Gelee Pilsener(ビール・ゼリー ピルスナー)」
ビールのジャム
それは僕にとって未知の領域だった。
お店のおばちゃんに声をかけると
彼女は誇らしげに
しかし穏やかな口調でその味について教えてくれた。
「甘いけれど
ちゃんとビールの魂が残っているのよ」

僕は迷わずそれを購入した。
店を出るとき
紙袋に描かれた赤いベリーのロゴがザルツブルクの柔らかな光を反射していた。
それからしばらくして
僕は日本に戻ってきた。
時差ボケもようやく落ち着き
日常が再びその平坦な顔を見せ始めたある朝
僕はザルツブルクから連れ帰ったその小さな瓶を
冷蔵庫から取り出した。
丁寧にトーストを焼き
黄金色のビールジャムを薄く塗り広げる。
ひと口かじると
まず上品な甘さが広がり
そのすぐ後に
ほんのりと――しかし確実に――ビールのホップの香りが鼻腔を抜けていった。
それは日本の朝の光の中で
ひっそりと
でも確かにザルツブルクの記憶を呼び覚ますような
洗練された嘉味だった。
トーストを飲み込み
コーヒーをすする。
遠い街の記憶が
ビールの香りと共に身体の隅々まで染み渡っていくのを感じる。
あの日
あの迷宮のような街を歩き回った報酬は
こうして数週間後の僕の食卓に届けられたというわけだ。
ごちそうさまでした。
Getreidegasse 24, 5020 Salzburg, オーストリア ℡+436645421211




